患者とその家族 その2

今年は、父の死が私にとって「いのち」について考えることが多い一年となった。

最終的に肺炎で亡くなったが、嚥下障害もありタンを自分で出すことができなかった。タンで窒息してしまいそうで、看護師さんに一日数回タンの吸引をしてもらっていた。始めのうちは吸引を嫌がり看護師さんの腕をつかんだり、吸引のチューブを歯で噛んで口の中に入れないようにしていたが、そのうちだんだん看護師さんの腕をつかむこともしなくなり、されるがままになっていった。
そんな状態になっても生きている。なんとなく父は神様に近い存在になったような気がした。

そこに「いる」のではなく、そこに「ある」存在。
「花が置いてある」みたいに、父が何かを語りかけるわけでもなく、痛いとかつらいとか言うことも無く、そこに存在し生きているだけ。人間も他の動植物と同じようにいのちがあるから生きている。人間は考える動物だから生きている証や生きている価値があるか考えてしまう。しかし生物としての人間には、あまり関係ないことなのかもしれない。

そこに「ある」ような存在になったら、本人が自分の存在価値を考えるのではなく、回りの人間がその人の存在価値を決めるのかもしれない。父に何かしてあげられることに喜びを感じたり、父を「神様に近い存在」と思ったりしたのも、私達の父への態度から父自身が自分の存在価値を感じてほしいという願いだった。


父には病気で苦しんでいても、幸せだったと思える最期を迎えさせてあげたいと思っていた。
「病気=不幸」「老い=不幸」とは限らないとの思いからだ。

孤立は病人にとって本当はつらい。もし家族がそばにいても、ありのままのその人を受け入れることができないでいたら、家族は元気な頃のその人の幻を見ていることになる。いつか良くなると信じる家族の思いと患者の現実。今の現実を見られない家族との間にはギャップが生じる。患者の今を見ようとしないことが、患者を苦しめる。患者の自己防衛本能で人を避けたり、ときには攻撃的になったり、患者もその家族もお互いに傷つけ合ってしまう。


父を看取った後、父の体の清拭を先生に申し出た。
職場の上司からそのようなことをさせてもらえる病院があると聞いていたから父の病院も出来るか聞いてみた。
看護師さんのご好意で、「長いことお風呂に入れなかったからシャワーに入れてあげましょう」と言ってくださり、私と妹で父の体をきれいにした。看護師さんを手伝って妹と体を洗ったり、ひげを剃ったりしながら父との別れの儀式として気持ちの整理ができた。父の他界は寂しかったが、家族としてやれることはやったという充実感があった。


父の最期を通じて、医療従事者として、そして患者の家族としての目線で父を看取れたことは、これからの私の人生にプラスになると感じている。